と先日と反対のことを言ってみる。
歌詞が存在すると、なぜか人は歌詞から音楽を理解しようとしてしまうことが多い。
日本のほとんどの音楽レビューや評論すら歌詞からの解釈に引っ張られる。それは歌詞はテキストだから、理解しやすいからだ。サウンド、メロディの意味についてはハイコンテクストなのかもしれない。でも音楽というアートに向かっていくとき、その歌詞に解釈の大部分を頼っていくのを何度も見てきたのでそれは良くないんじゃないかとずっと思ってる。
アートの重大な価値は、言葉とか思想とか善悪とか、それらを超えたところにある。
歌詞に意味はないとは本当は言いたく無いんだけど、歌詞が音よりもはるかに多くの意味を持っているとしたら、それは音楽じゃない気がする。テキストをただメロディという音階に当てはめて空気を振動させていることに意味を見出せるのか。
好きな人からしたら殴るぞと言われそうだが、僕はaikoの"我が我が感"がすごく嫌で、彼女の思いを詰めまくった歌詞という名の重いテキストを、このメロデイと演奏に載せるという意味が全くわからない。必要なのかそれ?
でもその問いを突き詰めてしまって、歌詞なんてなんでもよくねという結果がこれだとしたら、これはこれで意味がわからなくなってしまう。
これ聞いて、歌詞に意味なんてない!って解釈があるんだけど、というか当時はそんな感じだったと思うけど、歌詞からの解釈がうざい時代へのアンチにも見える。
田村隆一の詩を思い出す。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる
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